院長の市来です。このサイトにアクセスして
いただきましてありがとうございます。
今回私がどんな人間なのか自己紹介したいと思います。
私は昭和42年の羊年に生まれたさそり座のA型です。
生まれてから高校を卒業するまでは
鹿児島県で過ごしました。
今でも両親は鹿児島におりますので、
だいたい一年に一回帰省しております。
小さいときのことをあまり覚えていないので、幼稚園のとき砂場で遊んでいたことぐらいしか記憶にありません。私の小さいときの性格は人なつっこくて知らない人のところでも興味ありげに近づいていきました。落ち着きがなくてじっとしていなさいとよく怒られていたような気がします。
両親は商売をしておりましたので、一年で休みは正月1日と子供の運動会だけでした。仕事に対する責任感と途中で投げ出さない粘り強さは両親の背中を見て身につけたのだと思います。
私には8歳上に兄がおり、落ち着きのある兄とは対照的だったと思います。同じ環境で育ったのですが、好みもいろいろと違いました(兄は楽器好きと私は苦手、兄はパン好きで私はご飯党、兄は肉好きで私は肉嫌い・・・)歳が離れていて体の大きさも全然違うにもかかわらず、ジュースやおかずの量など同じでないと気が済まずにわがまま言っていた気がします。朝ごはんも兄がパンで私がご飯と違う物だったので母も大変だったと思います。
母は心臓病で体が弱かったですが、今振り返っても仕事も家事もよく頑張っていたと思います。本当に両親には感謝しています
小学生のころは今のようにテレビゲームもなかったですから、よく友達と外で遊んだ記憶があります。そろばんと習字を習っていましたが、字は今もへたくそです。そろばんは算数には役に立ったような気がします。
私が小学校5年のとき兄が大学に進学するために一人暮らしをはじめましたので、それ以来は一人っ子のようでした。それまでは相手にならないようなケンカをしていたのですが、離れて暮らすようになってからは、少し遠慮をするようになり距離ができていたような気がしています。兄はしっかりしているので今でも頼れる父のような存在です。私の兄は読書が好きでたくさん本を買っていました。
ここでも好きなジャンルが違います。兄は推理小説やSF小説が好きで、私は物語、伝記、昆虫記、動物記などが好きでした。私が人生で一番本を読んだのは小学6年のときで、ほぼ毎日図書館で1冊本を借りて読んでいました。一人の友達と本の冊数を競っていたのです。一年で200冊ほど読んだのではないでしょうか
子供のころから漫画の本とテレビが好きでした。夏休みはほぼ毎日プールと漫画を立ち読みするために書店に通っていた記憶があります。小遣いは少なかったですし、読む量が多かったので買わずに立ち読み専門でした(お店の人ごめんなさい)。おかげで漫画を読む早さには自信があります。
そんな影響もあったのか小学校2年生から視力が落ち始め、眼鏡の生活が始まりました。最初に眼鏡のレンズを割ったとき親に怒られると思って、何日も言えずにいたことが思い出されます。
現在はH18年にイントラ・レーシックの近視矯正手術を受けたので、0.06から1.5に回復して裸眼で生活しています。手術のことを聞きたい方はまたお尋ねください。
中学生になってからサッカー部に入部したのですが、親の反対ですぐに辞めることになりました。学業優先が理由ですが、当時はかなり悔しかったのを覚えていますし、今でも続けられなかったことを後悔しています。中学時代はそれなりに成績がよかったのですが、元々の落ち着きのないためか中間テストや期末テストで99点はあっても100点を取ったことがありません。かならず、どこか抜けているのです。
今の子供たちほど受験競争が厳しくはなく、田舎であったのも関係すると思いますが、のどかだった感じがします。私が中学の時代は、金八先生がテレビで人気を得ていた頃で、学校が非行で荒れていた時期でしたが、いいクラスメートや厳しくも思いやりのある先生にめぐりあえて楽しい中学生活を送ることができました。
高校も公立でしたが、いわゆる進学校でした。文武両道を目指すいい学校でした。高校もクラブ活動はしていませんでしたが、高校2年のころ少し太ってきたので、それから川沿いを毎日ジョギングするようになりました。毎年全校生で10キロマラソンがありましたので、ジョギングしていてよかったです。田舎なので、大阪のように塾がほとんどありませんでした。そのため、高校の授業カリキュラムはハードで1時間目の前に毎日補習がありましたし、2年間で3年分の内容をやってしまい、残りの一年は受験対策でしたのでついていくのが大変でした。先生も家族も自分たちも受験という目標に対して一生懸命でした。母親も補習のときは5時台には起きて、お弁当を作ってくれました。
現在のように個人情報保護法などありませんでしたので、全員の成績がおおむね分かるように発表がありました。競争意識をあおられて頑張ったところもあります。
私にはいつのころからか医者になるという目標がありました。何か大きなきっかけがあったわけではありませんが、なんとなく向いているような気がしていました。父親の影響も大きいと思います。私の家は医者というわけではなく靴屋をやっておりました。私は父が39歳の時に生まれましたので、父は戦争のころに幼少時代をすごしています。そのころはほとんどの家庭が貧しかったとは思いますが、私のお祖父さんは父が小さいころに亡くなっていたので、父は小学校を卒業したら家計を助けるためすぐに働きに出たようです。父は勉強が好きだったのに学校に行けず悔しい思いをしたようで、子供にはそんな思いをさせたくないと教育熱心でした。そんな父が、「医者」というイメージがよいのかしきりに薦めておりましたので自然に意識していたのかもしれません。歯科医を意識しだしたのは、高校2年からです。もともと手先が器用でしたし、当時歯科医はまだ数が不足している状態でしたので、どうせやるなら開業しようと考え、開業しやすい歯科医を選んだのを覚えています。
いよいよ大学受験を迎えました。私の受験のころは今のセンター試験が共通一次試験だったころです。この一次試験を見事に失敗しました。家は裕福ではありませんでしたので、浪人するわけにもいかず、志望校を大阪大学歯学部から岡山大学歯学部に変更して何とか合格することができました。実は鹿児島にも歯学部があるのですが、なんだかんだいっても勉強させられていたところもありましたので、開放されたい遠くに出てみたいという気持ちが強かったので、地元の大学をあえて避けました。もし大阪大学に入れていたらそれはそれでよかったかもしれませんが、今は岡山大学で学生時代を過ごせたことを本当によかったと思っています。
大学に入学を迎え、初めての一人暮らしもあり何もかもが新鮮でした。中学、高校とクラブ活動を我慢していたので、兄がテニスをしていた影響もあり、すぐにテニス部に入学しました。テニスというと軟派な感じがありますが、サークルではなく部活動でしたので、硬派にがんばっていました。週3回の練習もほとんど出席し、のめりこみました。大学時代前半は部活動を中心に動いていきました。練習は一生懸命やるのですが、才能があまりなくレギュラーへの道は遠い道のりでした。部活動を通していろんな出会いがあり、後輩として先輩として、付き合い方やルール、目標に向かってチームでがんばる経験を学べた大きな機会だったと思います。今でも部活動でのOB会は活発で大学時代出会った仲間たちや卒業してから知り合った後輩たちと交流し続けて、自分の人生に大きないい影響を受けています。
わが母校岡山大学歯学部は公立の中ではもっとも新しい歯学部です。大学は大きく二ヵ所のキャンパスに分かれていて全国の国立大学の中では北海道大学、筑波大学についで3番目の広さを誇る大きな総合大学です。大学の中にバス停が3箇所もあり、広いので移動するのに徒歩では大変です。我々は歯医者になるのに6年間大学で学ばなければなりません。私の入学した学年が7期であり、はじめて卒業生が出た年でした。歴史が新しい分自由な雰囲気があり、楽しい大学生活をおくれました。当然、実習や試験など大変なこともありました。特に6年生の臨床実習では、食事はとっているのにストレスで8kgも体重が落ちたこともありました・・・しかし今となってはいい経験・いい思い出です。
国家試験のときは短期集中で約一ヶ月間かなり勉強しました。全部の問題集の厚みで1メートルぐらいに達してしまいます。一日で3センチのタウンページぐらいの問題をといていかなければなりません。全部終わらなくても次の日は違う問題集をやり始めなければ全教科終わりません。もっと早くからはじめればよいのですが、大学のカリキュラムがハードですので国家試験の勉強になかなか時間が取れません。国立大学では大学でまったく国家試験の対策をしてくれませんので、すべて自分自身で努力しなければなりません。大学の授業や卒業試験は国家試験をまったく考慮した内容ではないです。教授がやりたいようにやっています。そのハンデが危機感を生んで勉強に取り組めるのではないでしょうか?
試験に落ちればただの人ですから、合格するために人生で一番勉強をした一ヶ月ではないかと思います。
ちなみに国家試験の次の日から腹痛を起こし、急性虫垂炎で緊急オペをしました。試験後の貴重な休みを棒に振って運が悪かったのか、試験中にならなくてラッキーだったのかどちらでしょうか。
私は大学6年のとき、将来の進路を悩んでおりました。それは歯科矯正医になるために大学に残るか開業医へ勤務して開業への最短ルートを選ぶかです。
結局、先輩の薦めや見学に行ったイメージなどで小室歯科に勤務することとなりました。小室歯科は小室甲院長の下、大阪の天王寺と難波に2院展開するドクターが25人ほどいる歯科では珍しい大型診療所です。ターミナルにあることもあり、患者様が遠くからも通ってこられる人気の歯科医院でした。ドクターの育成のシステムがしっかりしており、歯科学生からの人気も高く、入社に際し試験がありました。歯科医院で入社試験があるのは異例で私の入社年には30人以上応募があったと思います。運よく試験に合格し、同期7人とともに歯科医師人生が始まりました。
入社して半年間はほとんど患者様を診ることなく、見学と勉強会、自主練習であっという間に時間が過ぎていきました。勤務している先生方は人数も多いですから、いろんな個性を持った素晴らしい方ばかりでした。そして、スタッフの仲もよく、いろんなイベントもあり良い雰囲気の中、楽しく仕事をさせていただきました。
院長先生は包容力のある柔軟な感覚を持たれた素晴らしい先生で、自分の子供のような歳の若輩者である私たちの話を良く聞いてくださいました。勤務医は考え方も狭くなりがちで、応用が利きにくくなることもありますが、小室歯科ではそんなことも一切なく、いろんなことにチャレンジさせていただけたすばらしい環境で本当に感謝しています。自分が開業して分かるのですが、あんな人間力を持つ院長先生の下で働けたことはありがたかったと感じています。今もこれからも尊敬し続ける追いつけない存在です。
最初の4年間はJR天王寺駅の駅ビルである天王寺ステーションで勤務し、そのあと隣に天王寺ミオができたときにオープンした診療所に移り4年勤務しました。最後に一年は医長という役職も経験し、経営的なことも学ばせていただきました。
今の歯科医師としての自分の基礎はすべてここで学ばせていただきました。
勤務している途中、結婚いたしまして開業へと準備を進めていきました。
平成12年3月から大阪北区の東天満で いちき歯科 を開院。自分の思いを実現すべく夢の階段を踏み出しました。いろんな患者様との出会いを通して日々成長させていただいております。いつもでも「みんなの幸せのために」というビジョンに基づき社会に貢献していけたらうれしいと思います。
| 診療時間 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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